方 便 品
法華経二十八品(章)の第二にあたる経文。拝読するのは、この方便品の最初にしるされた文章で、仏の智慧はたやすく知り難いと述べ、真実の姿を見極める仏の深い智慧を信じて、これを悟り極めるよう説いたもの。私たちの一念のなかに、あらゆるものが色々な姿となって現れてくる。その心のありようをはっきりと見極めて、真実と平等を求め、仏の道を歩んで生きることの大切さを心がけて読誦すること。
妙法蓮華経 方便品 第二 真読 方便品 第二 訓読
爾時世尊。従三昧。安詳而起。告舎利弗。諸仏智慧。
甚深無量。其智慧門。難解難入。一切声聞。辟支仏。
所不能知。所以者何。仏曾親近。百千万億。無数諸仏。尽行諸仏。無量道法。勇猛精進。名称普聞。成就甚深。未曾有法。随宜所説。意趣難解。舎利弗。吾従成仏已来。種種因縁。種種譬喩。広演言教。無数方便。引導衆生。令離諸著。所以者何。如来方便。知見波羅蜜。皆已具足。舎利弗。如来知見。広大深遠。無量無碍。力。無所畏。禅定。解脱。三昧。深入無際。成就一切。未曾有法。舎利弗。如来能種種分別。巧説諸法。言辞柔軟。悦可衆心。舎利弗。取要言之。無量無辺。未曾有法。仏悉成就。止舎利弗。不須復説。所以者何。仏所成就。第一希有。難解之法。唯仏与仏。乃能究尽。諸法実相。所謂諸法。如是相。如是性。如是体。如是力。如是作。如是因。如是縁。如是果。如是報。如是本末究竟等。
 爾の時に世尊、三昧より安詳として起って、舎利弗に告げたまわく、
 諸仏の智慧は甚深無量なり。其の智慧の門は難解難入なり。一切の声聞・辟支仏の知ること能わざる所なり。所以は何ん、仏曾て百千万億無数の諸仏に親近し、尽くして諸仏の無量の道法を行じ、勇猛精進して、名称普く聞えたまえり。甚深未曾有の法を成就して、宜しきに随って説きたもう所意趣解り難し。
 舎利弗、吾成仏してより已来、種々の因縁・種々の譬喩をもって、広く言教を演べ、無数の方便をもって、衆生を引導して諸の著を離れしむ。所以は何ん、如来は方便・知見波羅蜜皆已に具足せり。
 舎利弗、如来の知見は広大深遠なり。無量・無碍・力・無所畏・禅定・解脱・三昧あって深く無際に入り、一切未曾有の法を成就せり。
 舎利弗、如来は能く種々に分別し巧に諸法を説き言辞柔軟にして、衆の心を悦可せしむ。舎利弗、要を取って之を言わば、無量無辺未曾有の法を、仏悉く成就したまえり。止みなん、舎利弗、復説くべからず。所以は何ん、仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。唯仏と仏と乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。所謂諸法の如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等なり。


現代語訳

そのとき、釈迦牟尼世尊は、身も心も安らかに、不動の境地に入っておられた。やがて、ゆっくりと静かに立ち上がられて、み仏の弟子で智慧第一といわれた舎利弗尊者に向かって、こう告げられた。
 もろもろの仏の智慧は、まことに深い。仏以外のものには、とうていはかり知ることはできない。
 もろもろの仏によって、さまざまに説かれた智慧の門は理解しがたく、その中に入っていくこともむずかしい。仏の教えを聞いて悟りを求めるものや、ひとり修行して悟りを開いたすべての仏弟子でも、これを知ることはできないほどである。
 なぜなら、仏はかつて、百千万億の、いやそれ以上のとても数えきれないほどの間、もろもろの仏のそば近くで親しくつかえ、悟りを得るために計り知れないほど教えを修行しつくし、その名があまねく聞こえるほど、勇気をふるい立たせ精進をかさねて、ひたすら悟りを求めてきたからである。
 しかも、きわめて深く、いまだかつて聞いたことすらない最高の悟りを成し遂げ、その悟りきわめた教えを聞くものの状態に応じて適切に説いてきたために、仏の心をたやすく理解することはむずかしいのである。
 舎利弗よ。
 わたしは、仏になって以来、さまざまな実例やいろいろなたとえ話をひいて、広く教えを演説してきた。たくみな手だてを数えきれないくらい用いて、一切の人々を仏の道に導き入れ、もろもろの煩悩の執着から離れさせてきた。
 なぜなら、仏は、いろいろな手だてを用いて悟りに導き、智慧をさずけて悟りにいたらしめる道とを、すでにことごとくそなえているものだからである。
 舎利弗よ。
 仏の智慧は、広大で深く、はるかに長くはかり知れない。それは、楽しみを与え苦しみをとり除き、喜びをもたらし迷いをぬぐい去り、いかなる障りにもさえぎられない力をもち、いかなるものにもあそれることのないものである。
 仏は、身も心も動ずることのない平静な心に入り、煩悩からまったく解き離れた完全で平安な境地に住み、限りなく深い、いまだかつてない教えをすべて悟り、仏の道を成し遂げているのだ。
 舎利弗よ。
 仏は、よくさまざまの考えをめぐらして、たくみに、もろもろの教えを説いている。やさしい言葉で人々を導き、人々の心に悦びを与えている。
 舎利弗よ。
 要するに、はかり知ることのできないほどの限りない、いまだかつて示されたことのない教えを、仏はことごとく悟りきわめているのである。
 舎利弗よ。 
 もう、やめよう。ふたたび、このことを説いてもしかたがない。
 なぜなら、仏の成し遂げた悟りの境地は、もっともすぐれており、まことにたぐいまれで、たやすく理解することのできない教えだからである。ただ、仏と仏とが語りあうことによってのみ、その教えをきわめつくすことができる。それは、仏のみがあらゆるものごとの真実の姿を悟っているからである。
 あらゆるものごとの真実のすがたとは、いったい何か。それは、もろもろのものがいかなるすがた形を示しているのか。いかなる性質をもっているのか。その本体は何であるのか。どのような力をもっているのか。いかなる働きがあるのか。それらのものごとがおこる原因は何か。ものごとの関連性や結びつきはどのようであるのか。それらの結果はどうであるのか。その結果のあとのありさまはどのようであるのか。こうした、はじめから結末にいたるまでの事がらが、たがいにかかわりあいながら、それぞれ等しく、つねにはてしなく結びあっている、ということである。
 これが、すべてのものごとの真実を悟りきわめた仏の深い智慧なのである。それゆえに、かたよった見方や少しばかりの悟りにおちいらないよう、平等で真実を見とおす仏の智慧をそなえるようにつとめはげむがよい。