法華経読誦のこころざし


道 場 偈

 法華経を信じ読誦する場所が仏のおられる道場であることを念じて、お唱えします。

当に知るべし、是の処は即ち是れ道場なり。諸佛此に於て阿耨多羅三藐三菩提を得、諸佛此に於て法輪を転じ、諸佛此に於て般涅槃したもう。

まさに知るべきである。
この場所は、すなわちこれ道場である。
もろもろの仏は、この道場において、完全に平安な境地に入られた。


三 帰 依

仏・法・僧の三宝に向かって、信心をおこし、教えを学び、教えを説いていく誓願をこめてお唱えします。

一切恭敬
自帰依佛 当願衆生 体解大道 発無上意 自ら佛に帰依したてまつる。
当に願わくは、衆生とともに大道を体解して、無上意を発さん。
自帰依法 当願衆生 深入経蔵 智慧如海 自ら法に帰依したてまつる。
当に願わくは、衆生とともに深く経蔵に入りて、智慧海の如くならん。
自帰依僧 当願衆生 統理大衆 一切無疑 自ら僧に帰依したてまつる。
当に願わくは、衆生とともに大衆を統理して、一切無礙ならん。

自ら仏に帰依いたします。
すべての人びとともに、大いなるみ仏の道を身につけて、最高の悟りをえるために、信ずる心をおこすよう誓います。

自ら法に帰依いたします。
すべての人びとともに、深くお経を習い学んで、海のように広い智慧を身につけることを、誓います。

自ら僧に帰依します。
すべての人びとともに、いっさいの苦しみ悩む人を救い導くために、つねにたゆむことなく教えを説いていくことを誓います。


三 宝 礼
仏・法・僧の三宝のかなめは、釈迦牟尼仏(仏)・妙法蓮華経(法)・日蓮大菩薩(僧)の三宝にあると信じ、一心にうやうやしく帰依の心をささげてお唱えします。
一心敬礼   十方一切    常住佛
一心敬礼   十方一切    常住法
一心敬礼   十方一切    常住僧

一心に敬って礼拝し、とこしえにすべての生きとし生けるものを救い導かれる本師釈迦牟尼仏に帰依いたします。

一心に敬って礼拝し、大いなる智慧をそそぎ、平等にすべてのものを仏の道に導く妙法蓮華経に帰依いたします。

一心に敬って礼拝し、み仏の使い上行菩薩の自覚にたって、すべてのものを救い導く日蓮宗の宗祖日蓮大菩薩に帰依いたします。


開 経 偈
これから法華経の経文を開き見て読んでいくときにお唱えする言葉です。
あいがたき法華経にあい、この法華経の功徳をほめたたえ、一心に信じたもっていく誓願をこめてお唱えしましょう。
無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭いたてまつること難し。我れ今見聞し受持することを得たり。願わくは如来の第一義を解せん。至極の大乗、思議すべからず、見聞触知、皆菩提に近づく。能詮は報身。所詮は法身。色相の文字は、即ち是れ応身なり。無量の功徳、皆是の経に集まれり。是故に自在に、冥に薫じ密に益す。有智無智、罪を滅し善を生ず。若は信、若は謗、共に佛道を成ぜん。三世の諸佛、甚深の妙典なり。生生世世、値遇し頂戴せん。
 この上なく深い妙のみ法である法華経には、はかり知れないほどの長いあいだ生きていても、出会うことはむずかしいのです。
しかし、私はいま、お釈迦さまがほんとうの心をあかされた真実の教えである法華経に出会い、お経の文字を見聞きし、受けたもつことができました。
 どうか、お釈迦さまの説かれた第一のすぐれた教えを信じ習いきわめることができますよう、心から誓願いたします。
 最高の大いなる法華経の教えを、私の小さな考えによって理解しようとするのではなく、法華経を見聞きし、お経の文字にすなおにふれて知ることが、そのまま、みなともにみ仏の悟りに近づく、と信じて法華経を読んでまいります。
 法華経の教えを説かれているのは、限りない命をとこしえに輝かし、いっさいを救い導こうとされているお釈迦さまです。
 法華経に説かれている教えは、すべての生きとし生けるものを仏にしようとされているお釈迦さまのお心です。
 法華経にしるされているお経のひとつひとつの文字は、そのままお釈迦さまのお姿そのものです。
 お釈迦さまが長い間積まれた、はかり知れない功徳は、みな、このお経に集まっております。
 このゆえに、法華経を信じれば、おのずから香りに染まるように、法華経の功徳は私の体にしみついて、知らず知らずのうちに、まことの利益をもたらします。
 智慧のある者も、智慧のない者も、これまでおかしてきたすべての罪をなくし、善を生ずることができます。
 法華経を信ずる者も、そしる者も、この法華経の広大な功徳につつまれて、みなともに仏になる道を成しとげることができます。
 過去・現在・未来の世の、もろもろのみ仏は、この法華経を悟って仏になられました。そのはかりしれない深い悟りの心が、妙なる法華経に示されております。
 いくたび生まれかわっても、いつの世に生きようとも、このありがたい法華経にお会いし、おしいただいて信じつづけることを、心からお誓いします。
 


方 便 品
法華経二十八品(章)の第二にあたる経文。拝読するのは、この方便品の最初にしるされた文章で、仏の智慧はたやすく知り難いと述べ、真実の姿を見極める仏の深い智慧を信じて、これを悟り極めるよう説いたもの。私たちの一念のなかに、あらゆるものが色々な姿となって現れてくる。その心のありようをはっきりと見極めて、真実と平等を求め、仏の道を歩んで生きることの大切さを心がけて読誦すること。
妙法蓮華経 方便品 第二 真読 方便品 第二 訓読
爾時世尊。従三昧。安詳而起。告舎利弗。諸仏智慧。
甚深無量。其智慧門。難解難入。一切声聞。辟支仏。
所不能知。所以者何。仏曾親近。百千万億。無数諸仏。尽行諸仏。無量道法。勇猛精進。名称普聞。成就甚深。未曾有法。随宜所説。意趣難解。舎利弗。吾従成仏已来。種種因縁。種種譬喩。広演言教。無数方便。引導衆生。令離諸著。所以者何。如来方便。知見波羅蜜。皆已具足。舎利弗。如来知見。広大深遠。無量無碍。力。無所畏。禅定。解脱。三昧。深入無際。成就一切。未曾有法。舎利弗。如来能種種分別。巧説諸法。言辞柔軟。悦可衆心。舎利弗。取要言之。無量無辺。未曾有法。仏悉成就。止舎利弗。不須復説。所以者何。仏所成就。第一希有。難解之法。唯仏与仏。乃能究尽。諸法実相。所謂諸法。如是相。如是性。如是体。如是力。如是作。如是因。如是縁。如是果。如是報。如是本末究竟等。
 爾の時に世尊、三昧より安詳として起って、舎利弗に告げたまわく、
 諸仏の智慧は甚深無量なり。其の智慧の門は難解難入なり。一切の声聞・辟支仏の知ること能わざる所なり。所以は何ん、仏曾て百千万億無数の諸仏に親近し、尽くして諸仏の無量の道法を行じ、勇猛精進して、名称普く聞えたまえり。甚深未曾有の法を成就して、宜しきに随って説きたもう所意趣解り難し。
 舎利弗、吾成仏してより已来、種々の因縁・種々の譬喩をもって、広く言教を演べ、無数の方便をもって、衆生を引導して諸の著を離れしむ。所以は何ん、如来は方便・知見波羅蜜皆已に具足せり。
 舎利弗、如来の知見は広大深遠なり。無量・無碍・力・無所畏・禅定・解脱・三昧あって深く無際に入り、一切未曾有の法を成就せり。
 舎利弗、如来は能く種々に分別し巧に諸法を説き言辞柔軟にして、衆の心を悦可せしむ。舎利弗、要を取って之を言わば、無量無辺未曾有の法を、仏悉く成就したまえり。止みなん、舎利弗、復説くべからず。所以は何ん、仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。唯仏と仏と乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。所謂諸法の如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等なり。


現代語訳

そのとき、釈迦牟尼世尊は、身も心も安らかに、不動の境地に入っておられた。やがて、ゆっくりと静かに立ち上がられて、み仏の弟子で智慧第一といわれた舎利弗尊者に向かって、こう告げられた。
 もろもろの仏の智慧は、まことに深い。仏以外のものには、とうていはかり知ることはできない。
 もろもろの仏によって、さまざまに説かれた智慧の門は理解しがたく、その中に入っていくこともむずかしい。仏の教えを聞いて悟りを求めるものや、ひとり修行して悟りを開いたすべての仏弟子でも、これを知ることはできないほどである。
 なぜなら、仏はかつて、百千万億の、いやそれ以上のとても数えきれないほどの間、もろもろの仏のそば近くで親しくつかえ、悟りを得るために計り知れないほど教えを修行しつくし、その名があまねく聞こえるほど、勇気をふるい立たせ精進をかさねて、ひたすら悟りを求めてきたからである。
 しかも、きわめて深く、いまだかつて聞いたことすらない最高の悟りを成し遂げ、その悟りきわめた教えを聞くものの状態に応じて適切に説いてきたために、仏の心をたやすく理解することはむずかしいのである。
 舎利弗よ。
 わたしは、仏になって以来、さまざまな実例やいろいろなたとえ話をひいて、広く教えを演説してきた。たくみな手だてを数えきれないくらい用いて、一切の人々を仏の道に導き入れ、もろもろの煩悩の執着から離れさせてきた。
 なぜなら、仏は、いろいろな手だてを用いて悟りに導き、智慧をさずけて悟りにいたらしめる道とを、すでにことごとくそなえているものだからである。
 舎利弗よ。
 仏の智慧は、広大で深く、はるかに長くはかり知れない。それは、楽しみを与え苦しみをとり除き、喜びをもたらし迷いをぬぐい去り、いかなる障りにもさえぎられない力をもち、いかなるものにもおそれることのないものである。
 仏は、身も心も動ずることのない平静な心に入り、煩悩からまったく解き離れた完全で平安な境地に住み、限りなく深い、いまだかつてない教えをすべて悟り、仏の道を成し遂げているのだ。
 舎利弗よ。
 仏は、よくさまざまの考えをめぐらして、たくみに、もろもろの教えを説いている。やさしい言葉で人々を導き、人々の心に悦びを与えている。
 舎利弗よ。
 要するに、はかり知ることのできないほどの限りない、いまだかつて示されたことのない教えを、仏はことごとく悟りきわめているのである。
 舎利弗よ。 
 もう、やめよう。ふたたび、このことを説いてもしかたがない。
 なぜなら、仏の成し遂げた悟りの境地は、もっともすぐれており、まことにたぐいまれで、たやすく理解することのできない教えだからである。ただ、仏と仏とが語りあうことによってのみ、その教えをきわめつくすことができる。それは、仏のみがあらゆるものごとの真実の姿を悟っているからである。
 あらゆるものごとの真実のすがたとは、いったい何か。それは、もろもろのものがいかなるすがた形を示しているのか。いかなる性質をもっているのか。その本体は何であるのか。どのような力をもっているのか。いかなる働きがあるのか。それらのものごとがおこる原因は何か。ものごとの関連性や結びつきはどのようであるのか。それらの結果はどうであるのか。その結果のあとのありさまはどのようであるのか。こうした、はじめから結末にいたるまでの事がらが、たがいにかかわりあいながら、それぞれ等しく、つねにはてしなく結びあっている、ということである。
 これが、すべてのものごとの真実を悟りきわめた仏の深い智慧なのである。それゆえに、かたよった見方や少しばかりの悟りにおちいらないよう、平等で真実を見とおす仏の智慧をそなえるようにつとめはげむがよい。


欲 令 衆
 はじめに、仏がこの世にお出ましになられた目的は、すべての人びとを平等に悟りの世界に導き入れることを語って、仏と私たちとの深い因縁をあかし、次に苦しみにみちているこの世の中で憂い悩むいっさいの人びとを仏は救い守ることをのべ、最後に法華経こそお釈迦さまの説かれた真実の教えであることを示した経文。法華経の方便品第二と譬喩品第三と法師品第十および見寶塔品第十一の経文のなかから選びだしてまとめたもの。法華経を信ずれば、お釈迦さまによって苦しみからはなれることができるとともに、救い導かれてつねに仏に守護されていることを確信しつつ、この経文を読誦すること。
欲令衆 真読 欲令衆 訓読
諸仏世尊。欲令衆生。開仏知見。使得清浄故。出現於世。欲示衆生。仏知見故。出現於世。欲令衆生。悟仏知見故。出現於世。欲令衆生。入仏知見道故。出現於世。舎利弗。是為諸仏。唯以一大事因縁故。出現於世。三界無安 猶如火宅 衆苦充満 甚可怖畏 常有生老 病死憂患 如是等火 熾然不息 如来已離 三界火宅 寂然閑居 安処林野 今此三界 皆是我有 其中衆生 悉是吾子 而今此処 多諸患難 唯我一人 能為救護我遣化四衆 比丘比丘尼 及清信士女 供養於法師 引導諸衆生 集之令聴法 若人欲加悪 刀杖及瓦石 則遣変化人 為之作衛護 爾時宝塔中。出大音声。歎言善哉善哉。釈迦牟尼世尊。能以平等大慧。教菩薩法。仏所護念。妙法華経。為大衆説。如是如是。釈迦牟尼世尊。如所説者。皆是真実  諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ清浄なることを得せしめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見を悟らせめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。舎利弗、是れを諸仏は唯一大事因縁を以ての故に世に出現したもうとなづく。三界は安きことなし 猶お火宅の如し 衆苦充満して 甚だ怖畏すべし 常に生老病死の憂患あり 是の如き等の火 熾然として息まず 如来は已に 三界の火宅を離れて寂然として閑居し 林野に安処せり 今此の三界は 皆是れ我が有なり 其の中の衆生は 悉く是れ吾が子なり 而も今此の処は 諸の患難多し 唯我一人のみ 能く救護を為す 我化の四衆 比丘比丘尼 及び清信士女を遣わして 法師を供養せしめ 諸の衆生を引導して 之を集めて法を聴かしめん 若し人悪刀杖及び瓦石を加えんと欲せば 則ち変化の人を遣わして 之が為に衛護と作さん 爾の時に宝塔の中より 大音声を出して、歎めて言わく 善哉善哉、釈迦牟尼世尊、能く平等大慧・教菩薩法・仏所護念の妙法華経を以て大衆の為に説きたまう。是の如し、是の如し。釈迦牟尼世尊、所説の如きは皆是れ真実なり。

現代語訳

もろもろの仏は、すべての人びとが本来そなえている仏の智慧を開かせて、煩悩のけがれをとりさって清浄にするために、この世に出現なされた。
 すべての人びとに仏の智慧を示そうとして、この世に出現なされた。
 すべての人びとに、仏の智慧を悟らせようとして、この世に出現なされた。
 すべての人びとを、仏の智慧の道に導き入れようとして、この世に出現なされた。
 舎利弗よ。
 これを、もろもろの仏が、ただ一大事の因縁があるからこそ、この世に出現されたというのである。
 この世は、欲望がさかんで、生死の苦しみにみちている。ひと時も、安らかなことがない。
 それは、さながら、ぼうぼうと燃えさかる家のようである。
 さまざまな苦しみが、いたるところにみちみちている。
 この世ほど、こわいところはなく、人びとは恐れおののかないではいられない。
 つねに、生・老・病・死の四つの苦しみに憂え、わずらっている。
 それは、燃えさかる火が、ますます燃え上がって、消えることなく燃え続けるようなものである。
 しかし、仏は、すでに、煩悩の燃えさかる家のようなこの世の苦しみや迷いからはなれて、心静かに、清浄で安らかな悟り の世界に住んでおられる。
 それは、閑静な林や野原に安らかに住んでいるようなものである。
 けれども、いま、すべての人びとが憂い苦しんでいるこの世は、みんな、仏である私がおさめているものなのである。
 この世の中で苦しみ、悩んでいるすべての人びとは、ことごとく、仏である私の子どもたちなのである。
 しかも、さまざまのわずらいや多くの困難がふりそそぐ今のこの世を、ただ、仏である私一人だけが、よく救い導き、護って  いるのである。
 私は、僧と尼と清らかに信仰している男女の信徒をつかわして、仏の教えを修行しひろめて仏の道を歩んでいるものを供養せしめ、さまざまな人びとを仏の道に導き入れて、これらの人びとを集めて、仏の教えを聞かせようとしているのである。
 もし人が、悪い心をおこして刀や杖をふったり、瓦や石を投げつけて危害を加えようとしたならば、すぐさま人のすがたに身を変えた使いをつかわして、仏の教えを信じひろめるものを護り通すであろう。
 このように仏が語られたとき、宝塔の中より大きな声を出して、多宝如来はこうほめたたえられた。
 よくいわれた。よく申された。釈迦牟尼世尊よ。
 よくぞ、平等で大きな智慧をそなえ、身と心をささげて仏の教えをひろめる菩薩のための教えであり、仏が護り念ずる妙法蓮華経を広くあらゆる人びとに説かれた。
 そのとおり、そのとおりなのである。釈迦牟尼世尊が説かれた教えは、すべてみな、真実なのである。

自 我 偈
 如来寿量品第十六の偈文(詩句)が「自我得仏来」の言葉からはじまるので、「自我偈」という。法華経の中心内容を説きあかし、すべての経典の眼目とされている。釈迦牟尼仏の命は永遠であることが語られ、仏は迷い苦しむ人びとに死を示して人びとの心を目覚めさせることにより仏の道を歩むよう説いている。また、いっさいの人びとを仏にするのが、仏の誓願であることがしめされている。私たちをつねに変わることなく救い導いてくださる仏の大きな慈悲の心にふれ、仏の願いにこたえて一心に信仰にはげむことを誓いながら、この経文を読誦すること。
妙法蓮華経 如来寿量品第十六 自我偈 真読 訓 読
 自我得仏来 所経諸劫数 無量百千万 億載阿僧祇
 常説法教化 無数億衆生 令入於仏道 爾来無量劫
 為度衆生故 方便現涅槃 而実不滅度 常住此説法
 我常住於此 以諸神通力 令顛倒衆生 雖近而不見
 衆見我滅度 広供養舎利 咸皆懐恋慕 而生渇仰心
 衆生既信伏 質直意柔軟 一心欲見仏 不自惜身命
 時我及衆僧 倶出霊鷲山 我時語衆生 常在此不滅
 以方便力故 現有滅不滅 余国有衆生 恭敬信楽者
 我復於彼中 為説無上法 汝等不聞此 但謂我滅度
 我見諸衆生 没在於苦海 故不為現身 令其生渇仰
 因其心恋慕 乃出為説法 神通力如是 於阿僧祇劫
 常在霊鷲山 及余諸住処 衆生見劫尽 大火所焼時
 我此土安穏 天人常充満 園林諸堂閣 種種宝荘厳
 宝樹多華果 衆生所遊楽 諸天撃天鼓 常作衆妓楽
 雨曼陀羅華 散仏及大衆 我浄土不毀 而衆見焼尽
 憂怖諸苦悩 如是悉充満 是諸罪衆生 以悪業因縁
 過阿僧祇劫 不聞三宝名 諸有修功徳 柔和質直者
 則皆見我身 在此而説法 或時為此衆 説仏寿無量
 久乃見仏者 為説仏難値 我智力如是 慧光照無量
 寿命無数劫 久修業所得 汝等有智者 勿於此生疑
 当断令永尽 仏語実不虚 如医善方便 為治狂子故
 実在而言死 無能説虚妄 我亦為世父 救諸苦患者
 為凡夫顛倒 実在而言滅 以常見我故 而生恣心
 放逸著五欲 堕於悪道中 我常知衆生 行道不行道
 随応所可度 為説種種法 毎自作是念 以何令衆生
 得入無上道 速成就仏身
 我仏を得てより来 経たる所の諸の劫数 無量百千万 億載阿僧祇なり 常に法を説いて 無数億の衆生を教化して 仏道に入らしむ 爾しより来無量劫なり 衆生を度せんが為の故に 方便して涅槃を現ず 而も実には滅度せず 常に此に住して法を説く 我常に此に住すれども 諸の神通力を以て 顛倒の衆生をして 近しと雖も而も見ざらしむ 衆我が滅度を見て 広く舎利を供養し 咸く皆恋慕を懐いて 渇仰の心を生ず 衆生既に信伏し 質直にして意柔軟に 一心に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜まず 時に我及び衆僧 倶に霊鷲山に出ず 我時に衆生に語る 常に此にあって滅せず 方便力を以ての故に 滅不滅ありと現ず 余国に衆生の 恭敬し信楽する者あれば 我復彼の中に於て 為に無上の法を説く 汝等此れを聞かずして 但我滅度すと謂えり 我諸の衆生を見れば 苦海に没在せり故に為に身を現ぜずして 其れをして渇仰を生ぜしむ 其の心恋慕するに因って 乃ち出でて為に法を説く 神通力是の如し 阿僧祇劫に於て 常に霊鷲山 及び余の諸の住処にあり 衆生劫尽きて 大火に焼かるると見る時も 我が此の土は安穏にして 天人常に充満せり園林諸の堂閣 種々の宝をもって荘厳し 宝樹華果多くして 衆生の遊楽する所なり 諸天天鼓を撃って 常に衆の妓楽を作し 曼陀羅華を雨らして 仏及び大衆に散ず 我が浄土は毀れざるに 而も衆は焼け尽きて 憂怖諸の苦悩 是の如き悉く充満せりと見る 是の諸の罪の衆生は 悪業の因縁を以て 阿僧祇劫を過ぐれども 三宝の名を聞かず 諸の有ゆる功徳を修し 柔和質直なる者は 則ち皆我が身 此にあって法を説くと見る 或時は此の衆の為に 仏寿無量なりと説く久しくあって乃し仏を見たてまつる者には 為に仏には値い難しと説く我が智力是の如し 慧光照すこと無量に 寿命無数劫 久しく業を修して得る所なり 汝等智あらん者 此に於て疑を生ずることなかれ 当に断じて永く尽きしむべし 仏語は実にして虚しからず 医の善き方便をもって 狂子を治せんが為の故に 実には在れども而も死すというに 能く虚妄を説くものなきが如く 我も亦為れ世の父 諸の苦患を救う者なり 凡夫の顛倒せるを為て 実には在れども而も滅すと言う常に我を見るを以ての故に 而も恣の心を生じ 放逸にして五欲に著し 悪道の中に堕ちなん 我常に衆生の 道を行じ道を行ぜざるを知って 度すべき所に随って 為に種々の法を説く 毎に自ら是の念を作す 何を以てか衆生をして 無上道に入り 速かに仏身を成就することを得せしめんと

現代語訳

釈迦牟尼仏は、はてしない久遠のいのちをもって、ずっと生きつづけられ、いっさいの生きとし生けるものを救い導かれていることを、こううたわれた。
 わたしが仏になってから
 経てきた時ははるかに遠い大昔
 百千万・億 とても数えきれない年月だ
 そのあいだ わたしはつねに教えを説き
 数えきれないほどの人びとを
 教えて 救い導いて 仏の道に入れてきた。
 その時いらい はかり知れないほどの長い長い時がたっている
 いっさいの苦しむ人をみんな救おうと
 たくみな手だてを用いては
 わたしの身体は滅すると いったり したりしてみせて 悟りの境地をあらわした
 けれどもほんとうは けっしてわたしは死んだりなんかはしないのだ
 いつも この世に住んでいて こうして教えを説いている
 わたしは つねにここに住んでいるけれど
 いろいろ不思議な力を使っては
 心が迷ってさかさまに おかしくなっている
 そんな人たちにたいしては
 こんなにそば近くにいるけれど
 わたしはすがたをあらわさないし 見せもしないのだ
 人びとが わたしの身体が滅んだと
 まのあたりに わたしの死をじっと見て
 広く 仏の遺骨を供養して
 みんながぜんぶ わたしのことを恋いしたい
 ぜひとも 会いたい会いたいもう一度
 わたしに向かって仰いで求める心をおこすなら
 すべての人びとが わたしを信じて従って
 素直な心でおだやかに
 一心に 仏を見たい会いたいと
 自ら いのちを惜しまず願うなら
 そのとき わたしは僧をたくさんともなって
 この霊鷲山にあらわれる
 わたしは そのとき 人びとにこう必ず語るのだ
 わたしは つねにここにいて けっして滅することはありえない
 けれども たくみな手だてを用いては
 死んだり ずっと死なない姿をば
 いつも こうして示すのだ
 ほかの国の人たちで 仏を敬い尊んで
 信じて聞きたいと 願っているものがいるならば
 わたしは またまた そこにおもむいて
 かれらのために 最高の 教えを説いてゆく
 ほかの国すら そうなのに
 わたしの住んでいる この世の中で
 迷っているのがあなたたち
 わたしの言葉を聞きもせず
 ただ わたしが死んだとばかり思っている
 わたしが この世の人をよく見ると
 苦しみの 海に沈んでいるのが あなたたち
 迷い さまよい 仏に背いているのが あなたたち
 それが ほんとうに よく見える
 だから わざと わたしはすがたをあらわさず
 みんなに 会いたい気持ちをおこさせて
 恋いしたう心になったとき
 わたしは すがたをあらわして
 みんなのために 教えを説いてゆく
 仏のそなえている まことに不思議な力とは これをさしていうのだよ
 はるかに遠く 長い長い 数えきれないほどの年月を
 わたしは つねに 霊鷲山にいる
 さらに そのほかの いたる所に住んでいる
 この世が滅びるときがやってきて
 この世に生きる人びとが 大火で焼きつくされようとしたときも
 わたしの国土は 安らかで
 天の神と人間で つねに いっぱいみちている
 美しい花園 きれいな林がはえしげり たくさんの お堂や楼閣 たちならび
 それは いろんな宝で まばゆくばかりに飾られて
 きらきら宝の輝く樹木には いっぱい美しい花が咲きにおい
 たくさん実がなっている
 人びとは みんなそこで遊んだり 楽しんだりしているのだ
 天上界の神々や人びとは 天の鼓をうちならし
 いつもいろいろな 音楽をかなでてる
 仏だけでなく 悟りを求める人びとに
 きよらかで美しい 曼陀羅華の白い花を
 雨のように 散らしながら降りそそいでいる
 わたしの浄土は このように美しく
 けっして こわれることはありえない
 それなのに 人はみんな この国をば
 燃えさかる火によって 焼きつくされていると見まちがえ
 憂えや恐れやもろもろの苦悩によってみたされていると思いこみ
 こうして さまざまの 罪をつくった人びとは
 悪い行いをつみかさね その因縁にもとづいて
 罪を背負って 長い長い年月を 過ぎても過ぎても いつまでも
 仏・法・僧の三宝の 名すら聞かずに生きている
 けれども あらゆる善い行いを
 行いおさめて 功徳をつみかさね
 心は柔和で すなおな人は 
 みんな わたしがここに身をあらわして
 教えを説いていることを
 はっきり見ることができるのだ
 あるときは こうした人びとに対しては
 仏のいのちに限りはないのだよ と説く
 長い長い時を経て ようやく仏に会えた者に向かっては
 仏に会うのはむずかしいことなのだよ と説くのだ
 わたしの智慧の働きは このように自在なのだ
 わたしの智慧の光は はかり知れないほど いたるところを照らしだす
 仏の寿命は 数えきれないほど長くて限りがなくて 永遠だ
 それは 久しい間善いことを ずっと行い つみ重ね 功徳をおさめてえたものだ
 あなたたちは 智慧をそなえているものだ
 このことを けっして疑ってはならないし まさに疑いのすべてをみんな断ちきって
 ずっと疑いを 捨てさらなければいけないよ
 仏の言葉は 真実で これっぽっちの嘘もない
 すぐれた医者がいた まちがって毒をのんで苦しんで 心の狂ったわが子をば
 なおして助けて救おうと たくみな手だてを工夫した
 自分は 生きているにもかかわらず 父は遠い旅する土地で死にました
 そう使いに言づけし これを聞いた子どもたち すっかり驚き悲しんで
 たちまち目ざめておきなおり 父がのこしておいた良薬を のんで心をとりもどし 病気をなおして救われた
 このはなしを わたしはあなたたちに 語って聞かせたことがある
 この医者の 言葉を嘘などと はたしてだれがいえようか
 わたしもまた この世の人びとにとっての父なのだ
 いろいろな 多くの苦しみ悩む人たちを救い導くものなのだ
 凡夫は 善と悪とを見あやまり 正と不正とをまちがえて
 さかだちした心をもっている
 そこで わたしはじっさいは いつでも生きているけれど
 わたしはもはや滅したのだ というのだよ
 つねに わたしに会えるのだと考えて
 救ってくれると思いこみ
 そこで わがまま おごりがわきおこり
 なまけていろいろな 欲望にとらわれて
 悪い道に おちこんで 苦しんでいるのが この世に生きる人びとだ
 わたしは つねに すべての人びとが
 仏の道を行っているか 行っていないか それを よく知っている
 正しい仏の教えに従って どうしたら救われるか 救うべきところを見さだめて
 みんなのために それぞれに ふさわしいさまざまな方法で 教えを説きあかす
 わたしは いついかなるところでも
 つねに 自ら こう誓願しているのだ
 どのようにしても すべての人びとを
 この上なき最高の 仏の道に入らしめて
 すみやかに 仏の身を成就させようか
 これが わたし 釈迦牟尼世尊の 永遠で滅することなき 誓願なのだ


神 力 偈
如来神力品第二十一の偈文(詩句)であるところから神力偈という。お釈迦さまは、末世の人びとを救うために、仏の使いをつかわし、法華経を信じ行いひろめるよう説いている。わたしたち一人ひとりが、人びとの心のくらやみをとりのぞく法華経の信仰者であることを肝に銘じて、この経文を読誦することが大切である。
妙法蓮華経 如来神力品第二十一 真読 訓 読
 諸仏救世者 住於大神通 為悦衆生故 現無量神力
 舌相至梵天 身放無数光 為求仏道者 現此希有事
 諸仏謦・声 及弾指之声 周聞十方国 地皆六種動
 以仏滅度後 能持是経故 諸仏皆歓喜 現無量神力
 嘱累是経故 讃美受持者 於無量劫中 猶故不能尽
 是人之功徳 無辺無有窮 如十方虚空 不可得辺際
 能持是経者 則為已見我 亦見多宝仏 及諸分身者
 又見我今日 教化諸菩薩 能持是経者 令我及分身
 滅度多宝仏 一切皆歓喜 十方現在仏 竝過去未来
 亦見亦供養 亦令得歓喜 諸仏坐道場 所得秘要法
 能持是経者 不久亦当得 能持是経者 於諸法之義
 名字及言辞 楽説無窮尽 如風於空中 一切無障碍
 於如来滅後 知仏所説経 因縁及次第 随義如実説
 如日月光明 能除諸幽冥 斯人行世間 能滅衆生闇
 教無量菩薩 畢竟住一乗 是故有智者 聞此功徳利
 於我滅度後 応受持斯経 是人於仏道 決定無有疑
  諸仏救世者 大神通に住して
  衆生を悦ばしめんが為の故に 無量の神力を現じたもう
  舌相梵天に至り 身より無数の光を放って
  仏道を求むる者の為に 此の希有の事を現じたもう
  諸仏謦・の声 及び弾指の声
  周く十方の国に聞えて 地皆六種に動ず
  仏の滅度の後に 能く是の経を持たんを以ての故に
  諸仏皆歓喜して 無量の神力を現じたもう
  是の経を嘱累せんが故に 受持の者を讃美すること
  無量劫の中に於てすとも 猶故尽くすこと能わじ
  是の人の功徳は 無辺にして窮まりあることなけん
  十方虚空の 辺際を得べからざるが如し
  能く是の経を持たん者は 則ち為れ已に我を見
  亦多宝仏 及び諸の分身者を見
  又我が今日 教化せる諸の菩薩を見るなり
  能く是の経を持たん者は 我及び分身
  滅度の多宝仏をして 一切皆歓喜せしめ
  十方現在の仏 竝に過去未来
  亦は見亦は供養し 亦は歓喜することを得せしめん
  諸仏道場に坐して 得たまえる所の秘要の法
  能く是の経を持たん者は 久しからずして亦当に得べし
  能く是の経を持たん者は 諸法の義
  名字及び言辞に於て 楽説窮尽なきこと
  風の空中に於て 一切障碍なきが如くならん
  如来の滅後に於て 仏の所説の経の
  因縁及び次第を知って 義に随って実の如く説かん
  日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く
  斯の人世間に行じて 能く衆生の闇を滅し
  無量の菩薩をして 畢竟して一乗に住せしめん
  是の故に智あらん者 此の功徳の利を聞いて
  我が滅度の後に於て 斯の経を受持すべし
  是の人仏道に於て 決定して疑あることなけん


現代語訳

仏とは すべて この世を救うもの
人の力のおよばない 不思議な世界に住んでいて
すべての人びとを 悦ばせようと念願し
はかり知れないほどに 不思議な力をあらわして
みんなを救おうとしているのだ
仏は 長い長い舌を出し 高い天の上までも 長い舌をとどけさせ
仏の言葉は こんなに長いあいだ いつもほんとうだよとさし示す
身体からは 数えきれない光をだし
仏の道を求めるものに
見たり聞いたりしたことも これまでめったにないほどの
すばらしい救いの事実をこうしてはっきり示すのだ
すべての仏は せきばらいしながら声をだし
指をはじいて音をだす
その声と音は あまねく 十方の国までとどろいて
大地は 上下に前後に左右にゆれ動き 地なりや地ひびき なりわたる
仏が 滅したのちまでも
よく この法華経を信じつづけていくことを 仏はみんな知っている
すべての仏は みんな心の底から喜んで はかり知れないほどの 不思議な力をあらわした
この法華経を 次から次ぎえ伝えようと 心がけている人もいる
すべての仏は 法華経を 信じ行うものたちを
はかり知れない長いとき いつでもどこでも ほめたたえ
けっして やめることはない
法華経を 信じ行う この人の 功徳の深さはかぎりなく
はるかにはるかにはてしない
それは はてしなくひろがる 十方の大空のようだ
よく この法華経を信じ行うものは
すぐさま わたし すなわち釈迦牟尼仏に会えるのだ
わたしの言葉を 真実なりと証明した 多宝仏にも会えるのだ
さらに わたしが こんにちまでずっと教え導いた すべての菩薩たちにも会えるのだ
よく この法華経を信じ行うものたちは
わたしやわたしの分身や
過去に滅した多宝仏やすべてのみんなを 喜ばせ
そこで いたるところの仏たちも
今いる仏や過去におられた仏や未来にあらわれる仏たちも
このようすを見たり 供養をささげたり
または すっかり喜んでいるだろう
もろもろの 仏がすべて この道場に
すわって悟った大切な めったに示さぬみ教えを
よく この法華経を信じ行うものたちは
久しい時間もかからずに すぐさま体得するだろう
よく この法華経を信じ行うものたちは
もろもろの教えの意義をすぐつかみ
その名や文字や言葉など
仏の説かれたみ教えを 心楽しく かぎりなく
教えのすべてを 習いきわめつくすだろう
それはちょうど 風が いっさいの障害もなく
空中に 吹きわたるようなものなのだ
仏が その身を滅したその後に
仏の説いた経典と
法華経の ひろまるいわれと順序とを
すっかり知りつくし
法華経の 説かれた教えにしたがって
教えの意義と 真実を きっと説いていくだろう
太陽と月の光明 あかるくて
よく もろもろの くらやみ とりのぞく
ちょうど それと おんなじだ
この世にわいてあらわれた この仏の使いたちは この世で法華経を
信じつづけ 行って 法華経をいたるところにひろめては
よく 煩悩に けがれた人びとの心のくらやみとりのぞき
すっかりなくしていくだろう
しかも 数えきれないたくさんの 菩薩たちを ついには真実の 悟りの道に引き入れて
仏になるための 法華経の世界に 住まわせるのだ だからこそ
仏の道を求めて行う 智慧あるものたちよ
こうした法華経の すばらしい功徳を よく聞いて
わたしが滅した のちの世において
この法華経を いつでも どこでも 信じ たもって 行うがよい
法華経を信じて この人は 仏の道に安住し
つまらぬ疑いおこすこともなく 心は不動で しっかりと確信もって生きつづけ
きっと仏になるだろう


宝 塔 偈

法華経見宝塔品第十一の偈文(詩句)であるところから、「宝塔偈」という。法華経を末世に信じ行いひろめることの困難さをあかし、その苦難にひるまないで、つねに法華経を信じ、読み、知り、説いていかねばならないことを教えている。わたしたちは、法華経を信じ行うことが、ほんとうの勇気であり努力であることをしっかりと心に刻み、この経文を読誦しなければならない。

妙法蓮華経 見宝塔品第十一 偈文 訓 読
 此経難持 若暫持者 我即歓喜 諸仏亦然
 如是之人 諸仏所歎 是則勇猛 是則精進
 是名持戒 行頭陀者 則為疾得 無上仏道
 能於来世 読持此経 是真仏子 住淳善地
 仏滅度後 能解其義 是諸天人 世間之眼
 於恐畏世 能須臾説 一切天人 皆応供養
  此の経は持ち難し 若し暫くも持つ者は
  我即ち歓喜す 諸仏も亦然なり
  是の如きの人は 諸仏の歎めたもう所なり
  是れ則ち勇猛なり 是れ則ち精進なり
  是れを戒を持ち 頭陀を行ずる者と名く
  則ち為れ疾く 無上の仏道を得たり
  能く来世に於て 此の経を読み持たんは
  是れ真の仏子 淳善の地に住するなり
  仏の滅度の後に 能く其の義を解せんは
  是れ諸の天人 世間の眼なり
  恐畏の世に於て 能く須臾も説かんは
  一切の天人 皆供養すべし


現代語訳

この法華経を 信じ行うことは たいへんむずかしい
もし 少しのあいだでも この法華経を信じ行うものがいたならば
わたし釈迦牟尼仏はそのときたちまち 心から喜ぶであろう
これは わたしだけでなく もろもろの仏たちも同じである
このように 法華経を信じ行う人を
もろもろの仏たちは ほめたたえるのである
法華経を信じ行うことを ほんとうの勇気があるというのである
法華経を信じ行うことこそ 真の精進なのである
これを 仏の教えを信ずるものがもつべき戒めをたもち
すべてを捨てさって
ひたすら仏の道を求め行っているものというのである
法華経を信じ行うならば
たちまち すみやかに
この上なくすぐれた仏の道を体得できるのである
未来の世に生まれて よく
この法華経を読みつづけるならば
この人はこれ ほんとうの仏の子であり
きよらかで善にみちたところに安んじて住むことができるであろう
仏であるわたしが 滅したのちの世で
よく 法華経の教えを 信じて理解するならば
この人は もろもろの天上界の人びとや この世の中の人びとを導く眼となるであろう
恐ろしい末の世において
よく ほんの少しのあいだでも この法華経を説くならば
すべての天上界の人びとは
みな この人を供養するであろう


四弘誓願

衆生無辺誓願度 衆生は無辺なれども 誓って度せんことを願う
煩悩無数誓願断 煩悩は無数なれども 誓って断ぜんことを願う
法門無尽誓願知 法門は無尽なれども 誓って知らんことを願う
佛道無上誓願成 佛道は無上なれども 誓って成せんことを願う

み仏の教えを、つねに変わることなくずっと信じ行いひろめていく誓願をあらわすのが、この四弘誓願です。
この誓願を仏・法・僧の三宝にささげていくこころざしをこめてお唱えすること。

現代語訳

苦しみ悩む人びとが、いかに限りなくいようとも、みなともに救い導いていくことを誓願いたします。

煩悩が、いかに数限りなくあろうとも、すべて断ちつくすことを誓願いたします。

み仏の教えが、いかにつきないほどあろうとも、すべて学び知りつくすことを誓願いたします。

み仏になる道が、いかにこの上なき高さにあろうとも、必ずみ仏の道をなしとげていくことを誓願いたします。


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