佐竹藩能楽師・石川泉翁顕彰碑建立の紹介



 会員面々の記念の仕舞が皐月の風に乗り、朗々とあたり一面に木霊する中、3年懸かりで計画を進めてきた秋田県喜多流謡曲連盟(渡邊豊治会長)が、秋田県協和町の唐松能楽殿前広場に「佐竹氏入部四百年記念並びに石川泉翁顕彰碑」をみごと建立し、平成13年5月27日現地にてその除幕式が行われた。

 


これに先立ち、5月13日には、秋田藩最後のお抱え能楽師で、明治から大正、昭和にかけ、県下を行脚し喜多流謡曲の指導に尽力した「石川泉翁」の墓所(久城寺境内)も合わせ同連盟が改建、無縁仏となっていた石川家の墓所も整備、渡邊会長夫妻、並びに役員、湯沢三雲会の計、7名が出席して、懇ろに開眼法要を営んだ。


                                       


〔唐松能楽殿前広場〕 記念顕彰碑・高さ4メートル、台座幅3.7メートル

          事業主体・顕彰碑建立発起人会 代表 渡邊 豊治

(表)     秋田県喜多流謡曲碑
                  佐竹氏入部四百年
                   並びに石川泉翁顕彰
                            平成十三年 五月吉日
                                   秋田県喜多流

(裏) 建立趣意書

 秋田の喜多流の濫觴を訪ぬるに、それ旧秋田藩主・佐竹氏に発す。慶長七年、清和源氏の末、佐竹義宣公秋田移封となるや、藩務の傍ら深見道叱ら喜多流能役者を召し抱え、江戸在府にあっては流祖喜多七太夫との親交をよくす。
 以後、幕末までの十二代二百五十年にわたる歴代藩主は、武家式楽として喜多流能楽を司り、これを秋田に定着せしめたり。 
 廃藩後、秋田藩乱舞方筆頭たる石川泉は、流儀の衰退を危うみ、明治、大正、昭和初頭の三代にわたり県下をくまなく行脚指導し、その門下千八百人と伝えらる(昭和四年没)現今、喜多流の礎これによって定まれり。
 昭和五十七年再び縁は巡り、佐竹十五代故、義栄氏、倉田儀一秋田魁新報社社長(故人)とともに秋田県喜多流謡曲連盟顧問として連盟創設を促し、その後の演能事業展開を支えたり。ここに年来、全国に先がけ、地方演能の先鞭を果たしたるは、県下の観世・宝生の盟友ともどもの献身と銘刻筆頭の各職分のご尽力に負うこと論を俟たざるも、ひとえにこれら先人諸賢のご守護によるものと一同思いを深くす。
 ここに、秋田市旭北寺町久城寺の泉翁墓石を整備改築するとともに、ここ由緒ある唐松の神域に本碑を建立し、向後の流儀発展に心を一にすることを誓うものなり。

 渡邊豊治氏は昭和四十七年「秋田能楽小史」発行の出筆にあたり、石川泉翁の業績を調査、その最中に無縁仏となっていた石川家の墓を久城寺に探し当てたご当人であり、以来、毎年の如く墓参に訪れている。
 一つの文化を、伝統を保持・継承して行くことは、とりもなおさず仏教が教える三世(過去・現在・未来)の在り様を常に我が心に見つめることである。

 私たちは、「秋田県能楽謡曲史」(秋田魁新報社発行)渡邊豊治氏著書の中で著者が云う「秋田県が全国に誇り得る優れた能楽文化を何物にも代え難い遺産として、後世に引き継ぎ、発展させていかなければならないと信じてやまないものである」との、まさに不言実行の渡邊氏をはじめ、喜多流謡曲連盟の活動に拍手を贈り、心ある各位の墓参をお待ちいたします。